スカイ・クロラ

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追記

この文章は「ダウンツ・ヘヴン」まで読んで書いていたんですが、実際に「スカイ・クロラ」シリーズを読み通したら原作をものすごく間違って解釈をしていることに気がつきました。ただ、映画のシナリオ自体が「ナ・バ・テア」までをベースにしたようで、偶然矛盾なく受け入れることが出来てしまいました。それに、監督の意図もムズムズすることなく、すんなり入って来ました。

偶然って怖いですね・・・

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映画の「スカイ・クロラ」を観てきました。
ネタバレを含む感想です。これから見に行こうと思っている人は注意してください。

押井守監督の作品なので、普通であれば押井作品だと思って鑑賞するのでしょう。そして、ほとんどの人が「押井守らしい作品だった。」と言うのだと思います。
意味深な台詞。語られない世界観。提示される虚構のモデル。
こう言った押井監督のテイストが随所に散りばめられています。

しかし、一方、原作の森博嗣作品を知っている人ならば完全な森博嗣作品だと納得するでしょう。

予習

攻殻機動隊」の原作と映画がかなり異なる趣きの構成になっていることは間違いないと思います。監督によって今回の「スカイ・クロラ」がどのように調理されるのかを知るために、まずは「スカイ・クロラ」の小説を読んでみました。
得られた結論は「押井作品にするのであれば、そのまま忠実に映像化するしかないはず」というものでした。
押井監督が好みそうな演出と台詞が随所に散らばっているのです。元々、森博嗣作品にはそういった傾向がありましたが、この「スカイ・クロラ」は特にそういった傾向が強い印象を受けます。「キルドレ」という設定がないと作品自体が成り立たない、一見すると全く主張が理解できない作品であることも押井監督の作風とマッチします。


という予習を踏まえて映画を見てみました。

予習の答え合わせ

実際のところ、ストーリーの大半の部分は原作を忠実に映像化した、と言っても過言ではありません。

2時間という枠で理解しやすいようにストーリーが整理されていたり、一部分は続編の「ナ・バ・テア」から取られていたりと再構成されていますが、基本的なシーン、台詞はほとんど原作にあるものが使われています。

登場人物のイメージも、ほとんど原作から忠実に再現されています。
(いきなりの笹倉の設定変更で冷や汗を書きましたが、これも笹倉の役回りが変わっていることを理解できれば大きな違いではありません。)

しかしながら、押井監督が「真実の希望」を表現したというだけあって、大きな変更もあります。

ネタバレ:スカイ・クロラはどんな話か?

造られた不死の人が戦うことを定められた世界、作られた戦争によって人々が平和を実感できる世界。その前提がこの作品の根底にあります。この設定がなければ、この作品は基本的に成り立ちません。

老化がなく、死ぬことがない人「キルドレ」は、空戦用の戦闘機のパイロットとして扱われます。普通に暮らしていたら死ぬことはないけれども、明日戦死するかもしれない閉塞感。その行き当たりばったりなことしか出来ない前提が受け手と共有できないと、そもそもこの作品は理解できないでしょう。


大抵のパイロットは戦死してしまうので、若く短い人生を歩むことになります。自分の存在意義を考えても仕方がない、だから今を生き延びるために目の前のことだけに執着するようになる。目の前のこと以外に執着がない、という思考方法になります。主人公のカンナミ ユーヒチ(映画ではユーイチ?)というパイロットは、そういった閉塞感漂う人生に明け暮れています。逆に、そうしなければ同じことの繰り返しの日々に耐えきれなくなるか、逆に明日が知れない兵士の状況に耐えきれなくなります。これを主人公たちは「自分たちは子供だ」「大人にならない」と表現します。身体的に大人にならないだけではなく、精神的に大人にならないという意味でしょう。


一方、元エースパイロットで今は上官の草薙水素は、凄腕であるために生き残り、その分いろいろなものを経験しています。(このあたりの「いろいろ」の部分は、実は「ナ・バ・テア」以降に書かれています。)彼女には「ティーチャ」「草薙瑞季」といった、目の前のこと以外に執着するものができてきて、それにも縛られるようになります。「キルドレ」としての矛盾を抱えてさらに閉塞感の増す彼女は劇中で「破綻している」と言われます。さらに彼女は、自分たちの人格が輪廻のループにある消耗品である可能性にも気づいています。消耗しない肉体に別の人格(もしくは記憶)を与えて何度でも再生されているという可能性が劇中に示されています。
破綻は生きることの難しさのハードルを高くし、人格が消耗品であることがその困難さを生き抜くモチベーションを低下させます。
その結果、彼女が得たものは、「消耗品とみなされている自分の人生(=人格)をいつ終わりにするか決定することで、運命を自分でコントロールする」という自由に対する執着です。

#余談ですが、キルドレの設定について、映画では異なっている気がします。不死とクローンがごちゃ混ぜになっているような気がします。


草薙水素とカンナミユーヒチの関係が中心にストーリーは展開します。草薙水素が何を考えて行動をしたのか、そのカンナミが出した答えが草薙に与えた影響はなにか、そういったことがこの映画の主題になっています。

ネタバレ:では映画は?

小説と映画ではラストが違います。このラストの差にこそ、押井監督の「真実の希望」を見出すことができます。
具体的な内容は言いませんが、小説版は繰り返しの完成、映画版は繰り返しからの脱却、といったところでしょうか。

小説版では、カンナミと草薙は同格の存在として扱われているような気がします。映画はあくまでも「草薙水素」という人の物語です。カンナミと草薙の役回りは違います。カンナミのとった行動によって草薙水素という人格が肯定されます。それはすなわち、生きていくことに対する執着を得ることになるし、子供であることを脱却できるということでしょう。続編である「ナ・バ・テア」の要素もうまく取り込まれていて、うまい具合にカンナミの行動によって草薙が救われた、という思いを共有できます。また、カンナミ自身も繰り返しの日々を脱却したいと思う一歩を踏み出せた、ということもできます。


小説版と映画版のどちらが素晴らしいか、は甲乙つけがたい所があります。おそらく、読者に訴えたい内容が微妙に異なるからでしょう。ただし、共感という点では圧倒的に映画版の方が馴染みやすいです。普通なら、森作品のほうが押井作品よりは共感しやすい気がするのですが、今回は逆なのかもしれません。


ついでに、カンナミの最後の顛末は全てエピローグなので、「おしまい、おしまい」というやつです。あれをやっとかないと、スタッフロール後のあのシーンを持ち出せないので強引にまとめました、ということでしょう。
ただし、小説で起こるであろう同様のシーンとは意味合いが違います。

小説と映画はセットで1つ、というような気がします。1粒で2度おいしい、というところでしょうか。